受験はオヤカラ?

学校や塾にまかせてしまいがちな子供の受験勉強。オトナもおさらいしてみる価値はアリ!?

悲しきかな、オトナになると、色んな難しい言葉を覚え、そして忘れていきます。
小学生はスポンジのように吸収していくので頼もしい限りですが、自分は貯金をしているのか、すり減らしているのか、段々とわからなくなることがあります;;

よく、「普段スマホやパソコンを使ってるから、漢字は書けなくなるよね~」なんて会話、聞いたことがありませんか?


本当にそうなのです。
いつだったか、僕も何かを手書きしている時に、「」という字が突然頭から飛んでしまって、書き順もわからなくなり、自己嫌悪に陥りました。あれ?あれ?と、書けば書くほど見たことのない漢字になっていき、深みにはまっていくのです。

さて、我々大人たちは、そんなショックを時折受けながらも、「中学受験で出てくる漢字ぐらいは書けるでしょ!」と高を括ってしまうものです。


本当にそうでしょうか??

そこで、トリッキーな出題も多い、慶應中等部の国語の過去問を少し覗いてみたいと思います。



第1問  山の頂から「ウンカイ」を見下ろす






さすがにそれは書けるよ、という方が多いでしょう。



そう、「雲海です。


しかし、これは小学生になじみのある言葉でしょうか?

仮に小学生が山の頂から景色を眺める機会があったとして、

「ねえ君、あれは見事な雲海だね」
「あの雲海に乗ってトランポリンをしてみたい」

・・・なんて言うとも思えません。

ちなみに自分は登山が趣味でもないので、大人になっても全く使いません。
その割には何となく耳に残ってる気がするなあ・・・とよくよく考えたら、「雲海」という名前の焼酎でした。



第2問  「カダン」に富む処置を行った




どうでしょうか?




これも、一瞬悩みながらも、「果断」と書ける方が多いのではないかと思います。


しかし、普段の日常生活、あるいは会社生活で、私たちはどのようにこの言葉を使うのでしょうか?

「あえて飲み放題を付けなかったのは、我ながら果断だった」
「部長。今のセカンドショット、果断でありました」

これまでの人生で、自分は一度も使ったことがありません。
「英断」ならまだしも、あえて「果断」にするあたりがひねりなのでしょうか。

この問いを目の前にして頭を抱えてしまう子どもたちが、少しかわいそうに思えてきます・・・。
でも、このような「書き言葉」を問うことで、読書をしている、していないの差が歴然と出てくるので、学校側としては受験生が日常的に活字を読んでいるかどうか、確認してみたいのかもしれないですね。



第3問 「ジンジツ」の七草がゆ。








1月7日の「人日」の節句です。

お粥も、大人になってからこそ滋味深く感じるものであって、「今夜は七草粥にしようよ~!」とせがむ小学生はいないでしょう。

もはや夏と冬しかなく、亜熱帯としか思えない日本の気候ですが、旧暦の二十四節気や七十二候などの説明を読んでいると、風情があっていいなあ・・・と思います。




第4問  「マサメ」の桐下駄をはく





・・・こんなの聞きますかね?




柾目」 あるいは「正目」

縦に平行に通った木目のことです。
木材を縦に切る時に、年輪にほぼ直角に当たるように(中心に向かって刃を当てて)縦に木材を切っていくと、きれいな均一な木目が出ます。

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「板目」も、木材を縦に切った時の断面のことですが、年輪にほぼ平行に接する方向に刃を当てて切っていくので、その模様は山のような木目になります。

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このように、なかなか油断できない問題もあるのです。(こんな問題が合否を決めるとは思いませんが)

しかし、こうして漢字の問題を並べてみるだけでも、慶應の場合、和のテイストがかなり前面に出ていて、ミッション系の学校との違いが感じられます。
慶應中等部では、御三家で求められるような深い読解力や記述力を問うものは基本的にありません。その分、(社会もそうですが)幅広く常識や教養のようなものが問われる傾向があるので、受験を考えている方は意識して対策した方が良いでしょう。


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夏休みに実家に帰った時、ずっと置きっぱなしにしていた古い本の整理でもしようと思い、本棚をゴソゴソやっていると、原田宗典さんのエッセイ集が出てきました。

今では本屋さんに行くと、原田マハさんの書籍が平積みで置かれていたりしますが、僕がまだ学生だった頃には、お兄さんの方が断然有名であったように思います。自分も、学園祭で企画されていたトークショーを見に行ったり、講演会に足を運んでみたりと、一ファンでありました。

読書が嫌い(特に小説)だった自分にとって、原田さんのエッセイというのは、文体が気軽で、視点がユニークで、青春的な要素もあり、当時はかなりハマっていたのです。

なつかしいなあ・・・と思いながら、パラパラとページを繰っていると、やっぱり20年近く経っても面白いものは面白い。その中で、ちょっと目に留まったというか、心に留まった話がありました。

どんな内容なのか。

観光地化が進んでいくバリ島では、ホテル建設などの開発によって、その景観を損ない過ぎることがないよう、「ヤシの木より高い建物を建ててはいけない」という条例があるらしいのだと。



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「ヤシの木って!!」「普通〇〇メートルとかでしょ!」と思わず笑ってしまいそうな話なのだけれど、よくよく考えてみると、これはそんなにおかしなルールだと言えるのだろうか。

私たちはあらゆる数字に囲まれて生きていて、数字は私たちに具体的なよりどころを与えてくれるものだと信じているけれど、逆に数字の方が、そもそも具体性のない、実体のないものではないか。

ずっとバリに住んできた人たちにとって、「越えるべきではない高いもの」という、感覚、畏れのようなものを「形」にしてくれるものは、数字などではなく、彼らの近くにあり、文化や生活に深く根付いている「ヤシの木」という具体的なものなのだ。そちらの方が、実はずっと自然な考え方ではないのだろうか・・・・。

・・・・と、大体そんな感じの内容だったと思います。


多分昔にこの本を読んでいた時も、同じように心に留まったと思うのですが、そのこと自体を忘れてしまっていて、また「そうだなあ」とあらためて思った次第です。

20年ぐらい前の本ですし、バリ島にまだそのルールがあるのかはわかりません。

でも確かに、例えば、「手のひらサイズ」とか「人肌の温度」と言われる方が、17cmとか、35度とか説明されるよりも、ピンとくるものがあります。
あと、普段はあまりにも多くの数字に囲まれて生きているので、その数字はどこからやってきたのか??なんて思考をすっ飛ばして、ポンと与えられた数字だけをスタート地点として、色んな判断をしているところもある気がします。

会社の決算、健康診断の結果、何とかランキング第何位とか、テストの点数や偏差値など、挙げるときりがありません。もちろん生活から数字が無くなると困ってしまうのですが、とにかく数字に振り回されて、一喜一憂することは多いです。(「トマトがこんなに高くなって!!」とかは、毎回スーパーで憂っています)


さて、ここで中学受験の話に繋がるのですが、
テストの点数や偏差値、塾での順位というのも、数字が出てくる以上は、やはり気になるものだと思います。

「気にするな!」という方が無理ですよね。むしろ、成績順にクラスを頻繁に入れ替えたり、座席の並びを変えたりと、やたらと「気にさせる」ことで、子どもたちの競争心をあおる方法が当たり前になってしまっています。

でも
テストはそもそも何のためにやっているのかというと、学習したことの理解の確認のためであり、本人がどこでつまずいているのかをチェックするためです。少なくとも自分はそう捉えています。誰かの頑張りを表彰したり、祝福したりするためのものではないですし、もちろんその逆も然りです。

私も小学生の頃、簡単な学校のテストで70点ぐらいを取ってくると、親がいい顔をしなかったのを覚えています。(さすがに40点を取った時には、もう隠ぺいしました。)
どうやら80点というのを勝手に一つの基準として持っていたらしいのですが、逆に80点以上を取った時というのは、安心してしまって、ほとんど復習なんてしていませんでした。

なので、自分の経験を振り返っても、良い点を取ってくればほめられて、悪い点を取ってくると叱られる・・・、そこにはテストの本質が置き去りにされていた気がするのです。



ところで、デザイン界の重鎮に原研哉さん(読解問題で実際の入試に出題されたこともありました@中大附属横浜)という方がいます。冒頭のエッセイの筆者である原田さんとは、高校の同級生であったらしく、何かのエッセイに書かれていたあとがきを思い出しました。


ある日、原田は数学のテストで0点を取った。
それもあきらめて空白で提出したわけではない。真剣に考え、算式で答案を埋め尽くし、回答した上での0点というのはなかなか取れるものではない。彼の卓越した文学的センスというのは、数学的センスの偉大なる欠如から来ているのではないか・・・・



うろ覚えではありますが、確かこんな内容の面白い評があった気がするのです。
まあ、これはたまたま、テストの話つながりで思い出しただけなのですが・・。


とにかく、テストを受けて、点数や偏差値だけを見て感情的になったり、「できた」「できなかった」だけを確認して終わってしまうのは、本当にもったいないと思うのです。数字の裏に隠れているものを見つけ出して、わからないところを少しでもカバーするのか、あるいはどうしても嫌いで受け付けない分野で、それは一旦そっとしておいて、後で時間が取れる時にまとめて対策をするのか、何か一つでも戦略を立てるのが理想です。

中学受験を目指すのであれば、志望校の本番のテストできちんと合格点を取ることが目標です。
それまでのテストは、単なるステップやツールに過ぎません。


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「読書が好き」、、、これは中学受験にとって有利でしょうか??

英語をはじめて学ぶ時も、まずは簡単な英語に「慣れていく」ことが効果的なのと同じように、日本語も、多くの言葉にたくさん触れていく子の方が、国語力は伸びていくはずです。

最近では国語だけでなく、他の科目でも文章題形式(しかも、読み解きにくい!)が増えているという大きなトレンドがありますから、読書好きな子というのは、中学受験で一歩も二歩もリードしている、と言って良いと思います。


では、本が嫌いな場合は、無理にでも読ませた方がいいのでしょうか??

これは結構悩むところですが、自分は「No」だと思っています。


僕自身、子どもの頃は本が嫌いで嫌いで仕方ありませんでした。
「本を開くと物語が始まるよ~!」なんて大人たちに言われても、あんまりワクワクしないのです。

今にして思うと、誰かが書いた小説というのは、(特に教訓めいたテーマが見え隠れしていると)ベタベタしているというか、何だか近くでお説教をされている気がして、苦手だったのだと思います。
だから、同じように感じているお子様がいても、全く不思議ではありません。

もちろん、これは名作だから、小学生向けだから、と子どもにおすすめできる本を読ませてみて、それが特に苦でないなら、言うことは無いですよね。

でも・・・、文章を読むことはそれなりにできても、文章を「書く」ことに抵抗を感じる子というのは、結構多いのではないでしょうか??



そこで、今回は「読書感想文」についてです。

私が子どもの頃、夏休みの宿題には必ずこの読書感想文が出されていて、「なぜ毎年毎年・・・」と、原稿用紙のマス目をにらんでおりました。

読書感想文は、基本的にどんな本を読んでもOK。

・・・とは言いながら、コンクールの主催側が推薦するような「課題図書」のリストというのもちゃんとあって、そこには子どもに推薦したい本、ぜひ読ませたい本、と言えるようなタイトルが並ぶわけです。

大人になってみれば、人がお薦めしてくれる本は読む価値があるとわかってくるのですが、あまのじゃくであり、難しい本を読みたくなかった自分は、そんなリストはほとんど見もしませんでした。
かといって、何か読まないと書くこともできず、夏休みもストレスフリーで楽しめないので、しぶしぶ本を選びに出掛けることになります。


そして、ある日本屋さんでビビッと来たのが、「イカ」でした。

手に取った本は、コブシメという種類のイカを特集した図鑑。


↓ これがコブシメ(コウイカ) (※これは図鑑でなく、フリー素材からの引用です)

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↓ 擬態ができます。

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ただし、図鑑といっても、写真動物記のようなもので、ちゃんとストーリーがあって、テレビの自然ドキュメンタリー番組がぎゅっと凝縮されたような感じです。
(あらためて調べてみると、全39ページ!一度復刻版が出たようですが、それでも古くて、在庫はナシ。)

カラーの写真があって、そして説明の文章が少しだけ。
このシンプルさが逆に想像力をかき立ててくれたのかもしれません。


なぜその本を選んだのか??理由は単純です。

まず第一に、字が少なかったから
そして、第二に、イカに自分の感情が揺さぶられるような予感がしたからです。


当時はまだ、給食を残すことに厳しい先生が結構いて、僕もよく残されていました。
いろいろと嫌いな食べ物はあった中でも、特にイカが苦手であり、、、でもよりによってイカは給食のメニューに高確率で登場する憎いやつでありました。(サラダにまで入っていたのです

食材としてのイカは、輪っかだったり、細長い柵だったりと、形を変えて自分を苦しめていたわけですが、元々の姿かたちも、どちらかといえば異形です。
それに、彼らが生きて泳いでいる姿などは決して身近では見られなくて、(生物としての)イカに対して、「こわいもの見たさ」のような感情があったのだと思います。



正直、今では本の内容はほとんど思い出せません。

南の海に住むコブシメは、身を守るため、身体を様々な色や模様に変えて、忍者のように擬態することができ、その姿が美しかったというのは印象にあります。

生き延びるための術があり、エサを取る狩りがあり、新しい命をつなぐための産卵があり、最後には死ぬ。
憎い食材でしかなかったイカに、こんな一面があるんだ、というか、こんな一生があるんだと、やはり感情は揺さぶられました。(あえて感動とはいいませんが)


多分、このイカの図鑑、他の子に見せても、「へー、おもしろいね」ぐらいで終わっていたでしょう。

本当に興味をそそられたり、感情が揺さぶられる、というのは、その子自身が体験した出来事や、あるいはその子自身が未来に思い描いている夢などと、どこかでつながっているからだと思うのです。

それがなければ、せっかく本を読んで感想文を書いてみても、
「○○はかわいそうだった。」「××がこうなって嬉しかった。」とドライな文章が連なるか、あるいは、書評家のようになってしまうか、どちらかでしょう。

本選びは結構大事です。

自分のこころの葛藤がどこから来るのか、ということに耳をすませることができれば、文章の力などに関係なく、400字×3枚なんて、すぐに埋まってしまいます。


ちなみに、あらためてコンクールの条件を見てみますと、「自由図書」の定義として、次のようにあります。

自由に選んだ図書。フィクション、ノンフィクションを問いません。
※教科書、副読本、読書会用テキスト類またはこれに準ずるもの、雑誌(別冊付録を含む)、
パンフレット類、日本語以外で書かれた図書および課題図書は対象としません。



「文章も書かれている図鑑」というのは、対象の図書としては、かなりグレーなんだと思います。
しかし、ダメだともはっきりと書かれていません。
自分のイカの作文が、どのレベルだったのか忘れましたが、何かの賞状をもらった(全然大した賞ではなかったですが)記憶があるので、当時は少なくともOKでした。

だからもし、

「とにかく本が嫌いで、読書感想文を書きたがらない」
「せっかく書いても、短い文章しか書けない」

というお悩みがあるのであれば、お子様が何に感情を揺さぶられるのか、という原点に一度立ち返って、本を選んでみると良いかもしれません。
サッカーが好きなら、プロの選手が書いた本だってありますし、占いが好きならタロットから占星術の本だってたくさんあるのです。「優等生な本」を読ませることが全てではありません。自分で選んだ本を熱中して読んで、一気に書き上げることで、自信もつくことでしょう。

「読書感想文なんて、受験とは関係ない!」ですませてしまうのは、ちょっともったいない気がします。

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